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赤坂の社労士事務所

福岡市中央区赤坂の社労士事務所「赤坂経営労務事務所」の
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社会保険労務士法人赤坂経営労務事務所
代表社員 大澤 彰

変えてはいけないものほど変えるのは簡単

経営

 会社は年々成長していかなければ、ビジネスの世界で生き残っていくことはできません。最もわかりやすい会社の成長は規模の拡大でしょう。
 売上や利益、従業員の数が増大するのは数字として表れますから、会社の成長を実感できます。しかしながら、成長には目に見えないものもあります。
 また、変えないということが結果として成長につながるケースも存在します。

 会社という存在は、常に成長を続けていないと置いてけぼりを喰らいます。そんな状況が続けば、いつか生き残りレースから脱落してしまうでしょう。ただし、成長にはいろいろな意味が含まれます。
 利益を拡大するのはもちろん成長です。それに伴う人員の拡大も成長でしょうし、社員のスキルアップも成長と言えます。
 最も分かりやすいのが、事業の拡大です。実際、そう考えている経営者も多いようです。
 しかしながら、今の位置にとどまることも時に成長を意味します。事業拡大は会社の宿命として求められますが、その際大切なものを忘れてしまうことがままあります。

 A社の原点を振り返ってみると、創業は町の惣菜屋でした。商売を始めたのはもう60年も前になります。揚げ物、煮物、漬物や佃煮も扱っていました。
 地元では美味しいお店と評判だったのですが、月日が流れ周辺にスーパーが建ち並び出すと、徐々に売上は落ちていったそうです。一カ所で何でも揃う便利さに勝てなかったのです。
 その苦境を乗り越えるために始めたのが弁当屋でした。元々、惣菜づくりが始まりでしたから、おかずをこしらえるのはお手の物です。
 周辺の会社の昼飯需要などを取り込んで、再びA社は活況を取り戻したのです。
 とは言っても、地方の小さな町の弁当屋です。一息はつけましたが、売上が飛躍的に伸びるということはありませんでした。
 そんなときにA社に舞い込んだのが、駅弁を作ってくれないかという依頼でした。
 当時はいわゆる日本の高度成長期です。日本人のレジャーも拡大していきました。
 その一つが鉄道旅行であり、鉄道を旅に使う人が増えるにしたがって駅弁の需要も拡大したのです。

 A社長はこのチャンスに乗りました。ただし、そこには依頼主の自治体からの要望がありました。それは、ご当地ならではの弁当にしてほしいというものでした。
 もちろんこれは、話があったときにA社長も直感的に感じたことでした。これまでA社の弁当を彩ってきたのは、どこにでもある惣菜でした。流用しても名物となって観光客が呼べるとは考えられませんでした。
 まずは名産として受け入れられそうな食材探しから始まりました。
 その中から選ばれたのは、B市で養殖が成功していたサクラマスでした。
 ヤマメの成魚が20センチ程度までなのに対して、サクラマスは大きいもので70センチにも達します。脂の乗りも段違いです。

 試行錯誤を重ね、ついにB駅でA社製の駅弁が発売される日を迎えました。
 ところが、想定していなかった事態がA社長を襲うことになります。
 苦心の結晶である駅弁がまったく売れないのです。
 ほどなくして売上不振の原因が判明しました。A社製の駅弁を売るB駅は特急が停まる駅であり、もちろんそれを見込んでB駅の名物になるような弁当が売り出されました。
 しかし、B駅は大きなターミナル駅から一つ目の停車駅で、駅弁を買う客はすでにそのターミナル駅で購入していたのです。また、反対側からやって来る客も、あと30分もすれば目的地という忙しい状況で、新たに駅弁を買おうなどとは思わなかったわけです。

 この問題を解決するには、ターミナル駅で駅弁を買うのを我慢してもらわなくてはなりません。わざわざB駅で買おうと思わせる必要があります。
 A社長が思い付いたのは、若い女性に揃いの制服を着せてA社の駅弁を売らせるというものでした。当時、駅弁販売は売り子がホームを歩きながらの「立ち売り」が当たり前でした。
 ただ、売り子は年輩の男性というのが一般的でしたから、マス寿司を思わせる鮮やかなサーモンピンク色の制服に身を包んだ若い女性の売り子はかなり目立ちました。今で言うキャンペーンガールでしょう。
 A社長の狙いは図に当たり、大きな話題になったばかりか、A社製の駅弁の売上は飛躍的に伸びました。

 こうした成功を見てA社長は長男に社長の座を譲りました。社長の代替わりと、全国からうちの駅でもA社の駅弁を売らせてほしいとの声が殺到した時期は重なりました。
 二代目が喜んだのは言うまでもありません。
 自分の実績を早々に示せると考えたそうです。
 全国からの誘いにすべて応えるために、A社のマス寿司弁当は量産体制に入ったのです。
 増産は作業場を拡張することで解決しましたが、賞味期限の問題が残りました。当時のことですから、どんなに急いでも発注元に届くまでに2、3日はかかりました。
 二代目が打った手は、そのころ話題になっていた真空パックの採用でした。これなら賞味期限は飛躍的に伸びます。
 すべての問題を解決したかに思えました。そして実際、A社の駅弁は販路が拡大した分だけ売れました。
 しかし、それは一時期のことでした。真空パックの駅弁は通常の駅弁より見た目が劣ります。ふたを開けたときの華やかさも失われ、徐々に売上は落ちていきました。

 地元でも売上は次第に落ちました。これは、全国展開に向けコスト削減を図り、以前までの駅弁の紐かけをやめたのが原因でした。これではA社の駅弁ではないという声が相次いだのです。
 こうした事態に二代目は先代A社長と話し合い、弁当の紐かけを復活させて、全国への発送も取りやめました。
 決め手は、先代の「変えてはいけないものほど変えるのは簡単」という言葉でした。弁当の紐はまさにそれでした。先代は弁当の改良を重ねてきた経験があるだけに説得力があります。

 この決断の結果、A社の売上は上がり、現在まで地元民からも観光客からも愛される弁当作りを続けています。
 事業拡大は経営者の本能であり、願望です。となれば、これまでのやり方を変えて、事業を拡大することは、ある意味で先代の言う簡単に変えられる仕事なのかもしれません。
 そして、「変えてはいけないものほど変えるのは簡単」は、変えなければならないものほど変えるのが困難、を意味します。
 会社の改革に際して必ず抵抗勢力が生まれるのはそういうことでしょう。自社にとって変えるべきもの、変えてはならないもの、その見極めが大切なのではないでしょうか。

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