人間関係において、ちょっとした出来事から仲良くなったり、その逆に険悪になったりということはよくあることです。
その関係をより深めるのも、あるいは修復するのも、その後のコミュニケーションにかかっています。
A社の創業は今から3年前ですので、まだ若い会社と言えるでしょう。
若いだけのことあって、社員も多くはありません。A社長の下に、5名の若者が集っています。
A社の雰囲気は良かったようです。社内に笑いは絶えないし、業務の滞りもありません。ところが、あることをきっかけにその歯車が狂い始めたようです。中途社員B君の入社です。
B君はまず、梱包・発送作業を教えられました。返事も良く、熱心に仕事を覚えようとしているのが伝わってきます。しかし、2、3日すると、B君の態度に微妙な変化が生じてきたといいます。先輩Cさんの言葉に首を傾げるようになったのです。
どうやらB君は、仕事を教えてくれる先輩社員の言葉に納得していないようです。
A社において、各人の役割分担はあったにしろ、小さな会社ですから、担当が忙しければ当然のように他の業務も兼務します。
新たに受注・在庫管理をB君が手伝った時のことです。
今度は最初から、懐疑的な態度で先輩社員Dさんに接するB君の姿がそこにありました。
それをDさんは敏感に察知します。「どうした」と水を向けてみますが、B君は「いえ」と言い淀んではっきりしません。
デスクワークに戻ったDさんは、机を並べるCさんに声を掛けたそうです。「B君ってどうだ」。「腹に一物あるようで、よく分からない」と、Dさんが期待した答えが返ってきたようです。
こうしたやり取りがあって以来、業務中も、飲み会の場でも、二人はB君に対してどこかよそよそしくなっていきました。その空気はいつしか、社内全体に伝播していったのです。
しかし、こうした空気はやはり疲れます。先輩社員から折れて、B君に「仕事はどうだ」などと言葉を投げてみますが、B君は曖昧に笑うばかりです。
いよいよ手に余ると判断したCさん、Dさん両名は、A社長に願い出て、飲みに出かけたのです。その場で、話題はB君に及び、彼の仕事ぶりを両名はかいつまんでA社長に言い募ったそうです。
両名の話では、B君が仕事に何らかの疑問を持っているのは明らかとA社長は判断しました。
そこでA社長は、梱包作業に取り組むB君に対してこう語りかけてみたのです。
「B君、今のやり方をもっと良くできないかな」
この言葉にB君は一瞬、意外な表情を見せたけれど、これまでのように曖昧な笑いでごまかすことはしませんでした。
2日後の全員が集まる会議において、梱包作業の改善を頼んだ経緯と、その回答をB君に求めたのです。
「段ボールの形状を変えてみたらどうでしょう」これがB君の提案でした。
A社ではこれまで、いわゆるミカン箱と呼ばれる形状の段ボールで梱包を行ってきました。これをミとフタの分かれる形状のものに変えようというのです。
A社の扱う商品は一つひとつ形状が定まっていません。ミカン箱に収まり切れない商品は、段ボールの縁をわざわざ切り取って、段ボールを二つ、三つ合体させるようにして梱包していました。
最初からミとフタの分かれたものに板段ボールを組み合わせたら、作業は効率化するし、コストも軽減できます。全員で検討した結果、採用しない理由は何ら見当たりませんでした。みんなが納得しているようです。即時、ミカン箱との併用が決まったのです。
ここで初めて、A社長は今回の会議の意図を明らかにしました。
我が社には、いつのまにか「どうして」がなくなってしまっていたように思う。
それは改善の余地、つまりは会社がより良くなっていくチャンスを自ら放棄していることだとA社長は言います。
たしかに、B君はA社の業務の改善に役立つアイディアを内に抱えていました。しかしながら、それを率直に表出する雰囲気が社内になくなっていたというのがA社長の見立てです。
A社長は「たしかにうちは雰囲気がよいが、それは慣れた仕事、いつもの会話の心地良さであって、そこから踏み出す勇気をいつの間にか失ってしまっていたように思う」と発言しました。そして、これからは一切の疑問を封殺することなく、「どうして」を大事にしていこうと結論付けたのです。
以降、A社長は自ら、事あるごとに「どうして」を社内で連発しました。それが社員にも伝染していったそうです。
たとえば、「どうしてこの業務が優先されるのだろう」といった具合ですが、その疑問がA社では社員間で話し合われ、解決策が導かれるようになったといいます。
社員数が少ない会社だからといって、社内のコミュニケーションの良好さを保証するものではありません。
そして、飲み会などの場でのコミュニケーションが、人間関係の円滑化に多大な働きがあるのは知っていますが、そればかりに頼ってしまうのはどうでしょう。
会社におけるコミュニケーションの根本は、「会社をより良くするため」にあるべきです。適切な「どうして」は愚痴や憂さ晴らしとは無縁の存在であると考えます。