いま私たちはモノが溢れている時代に生きています。需要に比べて供給がはるかに大きいのですが、これは需給双方にとって困った事態です。モノがあまりに多いと消費者は何を選べばいいのか迷ってしまいますし、企業はどうすれば選んでもらえるのかで迷走しがちです。そこで企業は他社の商品・サービスと差別化するわけですが、最終的に選んでもらうためには、さらに突っ込んだ行動が必要なのかもしれません。
そろそろパソコンを買い替えようかと思い立ったとき、困った経験はないでしょうか
コンピュータに詳しくて、自分が欲しい機能を明確に認識しているなら話は別ですが、いざ売り場に出向いてみると、広大なフロアーがすべてパソコンで埋め尽くされています。
その風景に途方に暮れてしまいます。膨大な数の中から一体どうやって一台を選べばいいのか見当もつかないからです。
ですから企業は、上記のパソコンの例に限らず、まずは消費者の買い物リストの候補に入るために、自社商品・サービスの差別化を図ることに躍起です。
その他大勢に紛れてしまっては、選ばれるきっかけさえ手にすることができないからです。そして実際、差別化することで売上に好影響があるようです。
しかし、差別化したからといって、すぐさま潜在顧客にその良さが届くものではありません。
A社は塗料や防災用品などを製造販売するメーカーです。
いまのA社のコア商品は蓄光顔料だそうです。
蓄光顔料といきなり聞かされてもピンと来ないかもしれませんが、実は私たちが日常生活のなかで頻繁に目にしている設備に多く使われています。
いちばん分かりやすいところで言えば、道路標識がそうです。電気を供給していないのに、暗いところで光っている標識に蓄光(夜光)顔料が使われています。
A社には70年の社歴がありますが、その黄金期は80年代です。
時計メーカーからの注文が急激に増えたのです。アナログ式時計の針先に蓄光塗料を用いることで、暗い場所でも時間が分かる時計がヒットしました。
蓄光塗料は腕時計だけでなく、置時計にも利用されて、その流れに乗ったA社はこの時期大きく成長したのです。
しかしながら、そうしたブームが長く続かないというのは世の常です。時計業界の流行がアナログからデジタルへと移っていくにつれて、A社への注文も目に見えて減少していきました。
A社の経営はいきなり危うくなりました。しかし、A社にとって幸いだったのは、主力商品であった蓄光顔料のさらなる進化を目指して、売上が伸びている間も常に研究開発を怠らなかったということでしょう。
その成果は結実しています。それはこれまでの顔料より、初輝度、残光ともに10倍もの明るさを示しました。
A社長の手元には、すさまじく落ちた売上と著しく性能が向上した商品が残りました。 A社長は、どうすれば改善できるのか、とにかく考えました。
まずA社長がしたのは、これまで実績のあった「蓄光標識」の分野への働きかけでした。 非常口や避難通路を示す誘導標識の分野でA社の新商品を使ってもらうための営業です。
A社の営業部員は全国を飛び回り、ときにはA社長自身も商談の場に出向きましたが、望むような結果は得られなかったといいます。
なぜなら、顧客にとっては従来品の品質でもとくに不都合は感じられなかったからです。 阻害理由はそんな単純なものでした。
この苦境のなか、A社長はもはや自分がやれることなどないような気がしたそうです。
実際のところ、売上は落ちたものの受注は続いていましたから、会社を維持するだけなら当面は大丈夫そうでした。ですので、そうした場所に安住するという考えもないわけではありませんでした。
ところが、A社長はそうはしませんでした。自社の製品に自信があったからです。営業はやり尽くしたとの実感はありました。
しかしどこかで、やり方次第でまだ行けるという思いがくすぶってっていたのです。
改めて自社製品を客観的にながめてみると、やはり品質は他社製品に比してずば抜けていました。それは数字に表れています。
消灯後20分後にモノの輪郭が確認できれば良いとされていたのですが、A社の品質はそれをはるかに上回っていました。
そこでA社が行なったのは、監督官庁への働きかけでした。「蓄光顔料の基準をもっと厳しくしてほしい」との要望です。
普通に考えれば、業界に対する規制は緩やかなほうが企業としては仕事がやりやすいものです。それにもかかわらず、A社はもっと規制を厳しくしてくれと要請したのです。
ここには様々な思いがありました。第一に従来の基準では災害が起こった場合に明らかに機能が不足しているとA社長には思えたからです。
灯りが消えてから20分後にモノの輪郭が確認できる程度の輝度では、どれほど避難に役立つかは大いに疑問でした。
A社が蓄光顔料の基準を引き上げてほしいとの要請を出したのには、それがいざという時に本当に安全を確保するための基準であってほしいとの思いがありました。
それを達成する性能が自社の製品には備わっているとの強い自負がA社長にはありました。だから、壁は高いと分かっていましたが、膨大なデータを揃え、行政に対して基準を引き上げてほしいと要請を出したのです。
もちろん、一方では業界の基準と自社の性能の間にあるギャップに、A社長は歯がゆさを感じていました。それがいくら高品質でも、従来の基準ではそこまで求められていませんから、宝の持ち腐れになってしまいます。
A社製品が他社のものと差別化できているのは明らかです。しかし、その違いが顧客・消費者に届かなければ、彼らにとって違いはないのと一緒です。
折衝中に起きたある事故が決め手でした。それは地下街での火事でしたが、煙が充満する空間では従来品がほとんど役に立たないことが明らかになったのです。
事故という偶発的な要因はありますが、ほどなく蓄光顔料の基準は20分後の輝度が引き上げられたのには、A社の行動が無関係ではありません。
以前の基準に比べると、20分後の段階で6倍以上の輝度が求められるようになったわけですが、A社製品がそれを楽々クリアしていたのは言うまでもありません。
各所が基準をパスするために慌てふためく状況のなか、A社の存在感は俄然高まりました。基準ギリギリの品質ではなく、はるかに高品質であることがさらにA社の信頼感を高めました。
A社長は手を緩めず、蓄光顔料の使用範囲を広げることを考えました。これまで蓄光顔料は屋内での使用に限定されていましたが、屋外での使用を市場に訴えたのです。
すると市場は一気に広がりますが、屋外は屋内よりも外気に多く触れるため、より高い耐久性が求められます。
しかし、A社はここでも、あえて厳しい基準をクリアするような挑戦に打って出たのです。
売上は上がっているといいますから、この行動が他社との差別化に貢献しているのは間違いなさそうです。
他社製品との違いを顧客に認識してもらうことは重要です。そうしないと、数ある商品の中から自社製品を選んでもらえないからです。
そのためには、ただ単に優れているとアピールするだけでなく、優れていることを認識せしめる戦術も考慮すべきではないでしょうか。A社が駆使したのはその具体例です。
また、差別化は製品ばかりでなく、会社それ自体にも必要です。社員に対して他社とは違うどんな働き方を提案できるのか、どんな大きな夢を提示できるのか。
そうした差別化は会社をきっと強くしてくれるはずです。